【祝祭の日】温泉と父母ヶ浜へ

11月11日は、神様が定めてくださった祝祭の日でした。

今回は香川県観音寺市の琴禅廻廊の温泉に行き、その後、周辺をドライブしてきました。

温泉にゆったり浸かり、非常にリラックスできました。

昼食は、琴禅廻廊のレストランで海鮮丼、天麩羅、そしてこってり系のラーメンを食べましたが、ラーメンがとてもおいしかったです。

その後、「父母ヶ浜(ちちぶがはま)」という浜辺に行きました。

https://www.mitoyo-kanko.com/chichibugahama/

ここは、潮が引いた干潮時の夕暮れには、南米ボリビアの「ウユニ塩湖」のような写真 が撮れると話題になっているそうです。

そのため、訪れた人たちは潮だまりの近くに立ってポーズをとっていました。

父母ヶ浜photo  

父母ヶ浜photo

また、2018年には じゃらんの「夕日絶景ランキング」で全国1位に選ばれたこともあり、夕日が非常に色鮮やかで美しかったです。

素敵な景色の中で皆さん楽しんでいましたが、私は不思議な体験をしました。

楽しんでいる人達に意識を向けると、胸が苦しくなったのです。

説明は難しいのですが、それは霊的な苦痛だったので、神様から意識を離したからだと思い、神様に祈りを捧げると、苦しみがすっと取れて癒されました。

こうしたことを何度か繰り返して、「神様から意識を離してはいけない」と神様が仰っているのだと思い、できていないことを反省しました。しかし、この苦痛は一体何なのかと考えた結果、楽しそうにしている人たちの心が伝わってきているのではないかと思うようになりました。

私たち人間には肉体だけでなく霊魂もあり、その霊魂は、神様に意識を向けると神様の霊から影響を受け、人に意識を向けるとその人の霊から影響を受けるのだそうです。

楽しそうにしている人たちの心は、実は不安や心配で満たされていて、それをごまかすために世の中的なことに楽しみを見出そうとしたり、羽目を外しているのかもしれません。

その苦しみを無くすには、神様の愛を受けるしかありません。しかし、神様に出会えない人は不幸です。

美味しいものを食べて、旅行に行って、この世のものでいろいろ楽しんでも、お金があってゆとりがあっても、不安や心配はなくなりません。

また、原因不明の虚無感に襲われることもあります。

神様に出会う前の私は、まさにそうでした。

神様の愛を受けると、この世のものから得ていたものがとてもつまらないものであったことに気づきます。

聖書に、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコによる福音書8;36)とあります。

神様の愛を受けられず、心の地獄を味わって霊的に死んでしまったなら、この世のすべてを手に入れても何の意味もないと、つくづく思います。

今年の祝祭の日は、自分の欠点や弱点が見えた日であり、さまざまなことを考えさせられた日でもありました。

まだ神様に出会っていない人が、神様に出会うことができますように。

今回の有料記事も、朝の祈り会で伝えた御言葉の元となった啓示の文章をいくつか掲載しています。

神様は私たち人類を愛し、私たちを救おうとされておられます。

しかし、そのように神様が私たちを愛しているからこそ、私たちが神様に意識を向けようともせず、神様に気をかけることなく生きるなら、神様は気分を害して、私たちのことを全く気にかけて下さらなくなります。

今現在、人類のほとんどが神様を意識することなく、神様に気をかけることなく生きているので、神様は人類を顧みてくださることなく、むしろサタンやイルミナティたちにやられるがままに放置しておられます。

しかし、この御言葉を聞いて主を信じるようになった私たちは、神様のことを意識し、神様のことを気にかけて生きるようになったので、神様も同じように私たちのことを意識し、気にかけて下さるようになりました。

だからこそ、私たちは常にサタンや人間サタンから守られ、かつ祈ったこと全てが叶えられるようになったのです。

この世の人々は「神様が存在しているなら、どうしてこの世の中はこんなに酷い有様になっているのか」と不満を言いますが、それは彼らが神様のことを気にかけず、神様を愛そうともしなかったからです。

私たちが絶えず神様のことを気にかけて、神様を愛するなら、神様も同じように私たちのことを気にかけて、私たちのために様々な取りなしをしてくださいます。

ですから私たちは、絶えず24時間、神様に意識を向けて生きられるように努力しなければなりません。

そうしてこそ、その人は神様の手によって、サタンや人間サタンから守られ、豊かな祝福を受けて生きられるようになるのです。

RAPT有料記事424(2019年11月30日)自分が主のことを気にかけているときだけ、主も自分のことを気にかけて下さるのだと理解しなさい。

今回の有料記事も、朝の祈り会で伝えた御言葉の元となった啓示の文章をいくつか掲載しています。

神様はこれまで私たちに対して、常にご自身に意識を向けて生活するようにと仰ってきました。

私たちが意識を向ける人のところに、私たちの霊魂が実際に行き、その人から強い影響を受けるようになるからです。

つまり、私たちが神様に意識を向けるなら、私たちの霊魂は神様の霊から影響を受けますが、私たちがこの世の人々に意識を向けるなら、私たちの霊魂はこの世の人たちの霊から影響を受けることになるのです。

そして、神様の霊から影響を受けるなら、私たちの霊魂はより高い次元に上っていくことができますが、この世の人々の霊から影響を受けるなら、私たちの霊魂はより低い次元に墜ちていきます。

そして、もし私たちの霊魂が低い次元に墜ちいていくなら、私たちはいずれ救いも恵みも失って、アダムとエバと同じように地獄のような生を生きることを余儀なくされます。

私たちはより高い次元に上って、神様に似た者となり、永遠の救いと祝福を手にすることができるように、常に神様に意識を向け、神様に意識を集中して生きていかなくてはいけません。

そのようにして、この世で頭角を現し、神様の栄光をこの地に輝かせ、主の御心を成していく者とならなければなりません。

RAPT有料記事455(2020年3月30日)神様に意識を向けた人の霊魂は、神様のところに行って、神様の霊から影響を受け、世の人に意識を向けた人の霊魂は、世の人のところに行って、世の人の霊から影響を受ける。

今回の有料記事も、朝の祈り会で伝えた御言葉の元となった啓示の文章をいくつか掲載しています。

前回の有料記事で、神様に意識を向けると、私たちの霊魂が実際に神様のところに行くと話をしました。

そして、そうやって神様に近付いていくと、私たちの霊魂は神様から様々な影響を受けられるので、神様により似た者へと成長することができます。

そうして、神様と心情一体となり、神様の体となって、この世で神様の御心を大きく成していくことができるようになります。

とはいえ、この世の中で常に神様に意識を向けて生活するということは、非常に難しいことです。

多くの人がこれまでずっと神様など意識せずに何十年とこの世を生きてきたわけですし、そもそも、この世の中には神様から意識を逸らせてしまうものが沢山あるからです。

特に誰か人間に対して情を抱くようになると、神様に意識を向けることは極端に難しくなります。

そうすると、その人の霊魂はどんどん神様に近付くことができなくなり、神様に似た者へと成長することもできなくなります。

そんなことにならないためにも、私たちは神様から意識を逸らせてしまう全てのものを自分の周りから捨てて、ひたすら神様に意識を集中して生きるように努めなければなりません。

そうすることで、私たちは神様のような能力、知恵、力と権能を持ち、神様と一体になって壮大に神様の御心を成していく者にならなければなりません。

RAPT有料記事456(2020年4月4日)人間の肉体も自分が近く接した人から強い影響を受けるが、人間の霊魂はもっと自分が近くした人の霊魂から強い影響を受ける。